コラム

100年前の萩原印刷所(祖父母の時代)について

代表取締役 萩原 誠

 皆さんご存じの通り2025年に当社は創業100周年を迎えます。現在社内向けに100年史を作成しております。祖父母の時代(創業期)、父母の時代(復興期)、母の時代(成長期)、そして私たちの時代(発展期)のまとめを行っています。今回は創業期の萩原印刷所をご紹介します。
 祖父萩原芳雄は1895年(明治28年)1月4日、父・利七、母・タカのもと、栃木県那須郡烏山、現在の那須烏山市に7人兄弟(五男二女)の次男として生まれました。16歳の頃上京して、池袋の荷札屋(荷札製造所)に職を得ました。その後ご縁があり溝口印刷の営業として働き始めます。溝口印刷の親戚で、当時16歳だった母の俊子と知り合い結婚します。その後独立して1925年に新宿区山吹町198番地にて自宅兼工場を構えて萩原印刷所を創業します。折しも新宿、牛込界隈の印刷業界は、空前の好景気を迎えていました。前年の9月に起こった関東大震災で、神田、日本橋、芝方面の印刷会社はほとんど火災で焼失してしまい、なかなか復興が進みませんでした。一方、牛込方面は幸いにして火事もなく、大きな被害も出なかったため、一刻も早く出版物を発行したい出版社からの仕事が殺到していました。
 祖父芳雄は当時から第一書房の長谷川巳之吉社長に可愛がられ、たくさんの仕事を頂くことになります。長谷川氏はフランス文学者で詩人でもある堀口大學氏とも親しく多くの著作を手がけました。そのほとんどの仕事を萩原印刷所で受注しました。
 萩原印刷所の初仕事はジュルロオメエン著 堀口大學訳 「キネマシナリオ ドノゴオトンカ」 第一書房刊 大正十四年七月刊でした。(印刷者 萩原芳雄)(長岡市立図書館 堀口大學コレクション蔵)
 芳雄は、その後市電で事故に遭い、足をけがして半年間もの入院を余儀なくされました。その後も歩行には杖が必要となり、芳雄に代わって妻の俊子がすべての外交を担当することになりました。当時、秀英舎(大日本印刷の前身)など大きな印刷所の下請けを担う印刷所は多く、頭を下げて新規開拓に回らなくても定期的に仕事を受注できる方法はありました。しかし芳雄はそれをせず、溝口印刷時代から続く出版社との直接契約にこだわりました。
 昭和初期のそのころ、俊子は和装姿で毎日外交に出かけました。何度断られても今日がダメなら明日、明日がダメなら明後日、奥付一枚だけでも刷らせてください、と日参するうち出版社のほうが根負けして、少しずつ仕事を回してくれるようになりました。そうして一軒一軒訪ね歩くうち、いつの間にか得意先が増えていきました。岩波書店、有斐閣、巌松堂、雄山閣、偕成社、香蘭社など、いずれも一流といわれる出版社でした。
 また、第一書房の長谷川巳之吉を通じて知己を得た堀口大學氏は、事務所が偶然にも萩原印刷所の近傍にありました。そのため、従業員が直接事務所を訪ねて校正刷りの受け渡しをするなどたびたび往来し、個人的にも親しい関係を築きながら、多くの文芸作品を世に送り出すことになりました。
 昭和8年には隣の印刷所が移転して空き家となった2階建ての建物を借り受け、製本所も置くことにしました。印刷のみの受注からスタートした萩原印刷所は、とうとう組版、製版、印刷、そして製本まで、念願の一貫生産を実現させることとなったのです。このころには職人(文選工、植字工、機械場など)のほか、事務員、女中、住み込みの小僧など合わせて従業員は50名以上おり、戦争が激しくなるまで経営は順調でした
 当時手掛けた作品には名著も多く、例を挙げると
 ジアン・コクトオ(堀口大學訳)『ジヤツク・マリタンへの手紙』(昭和6年3月刊)、萩原朔太郎『氷島』(昭和9年6月刊)、太田黒元雄『奇妙な存在』(昭和8年10月刊)、堀口大學『月下の一群』(大正15年9月刊)、小泉八雲『小泉八雲全集15巻』(大正15年~昭和2年)、東郷青児『カルバドスの唇』(昭和11年10月刊)、長谷川春子『戯画漫文』(昭和12年1月刊)、ロマン・ロウラン(大田黒元雄訳)『過ぎし日の音楽家』(昭和3年4月刊」、室生犀星『室生犀星詩集』(昭和4年11月刊)、ヘルマン・ヘッセ(三井光爾?訳)『内面への道』(昭和8年11月刊)、サン・テクジュペリ(堀口大學訳)『夜間飛行』(昭和9年7月刊)、林芙美子『女の日記』(昭和12年1月刊)、川端康成『小説の研究』(昭和11年8月刊)、河東碧梧桐編『正岡子規文学読本(春夏の巻)』(昭和11年6月刊)、伊藤整編『樋口一葉文学読本(春夏秋冬)』(昭和13年7月刊)、安岡正篤『世界の旅』(昭和17年12月刊)
などがあります。
 太平洋戦争が始まり、本土にも爆撃機が飛来するようになると、芳雄は印刷所の閉鎖を考えるようになりました。徴兵で従業員が減り、紙は国策により統制され、配給制となって自由に売買できなくなっていました。今後の見通しどころか、これから戦争はますますひどくなるだろうと芳雄は見越していました。そこへ近所に爆弾が投下、建物が全焼してしまいます。この出来事を直接のきっかけに、芳雄は機械などすべて売って印刷所をたたみ、栃木へ疎開することを決意しました。昭和18年頃のことでした。

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